「うぅ~、さむっ」 まさに言葉通り、寒さによって目を覚ました俺――こと、衛宮士郎は身体を丸めながら、ぼんやりと瞼を開けた。 何重にも重ね着した服、そして布団を貫いて、寒さが俺の身体を芯から苛めてくる。 俺はそれから逃れようと布団を背負い投げ……と言うよりは、巻き込み技の如くぐいっと引き込むのだが、この空気同様、障子の隙間から射しこむ光の鋭さが俺を再び眠りの世界へ戻してくれなかった。 「…………」 こういうとき、自分の早起きな気質も恨めしい。一度目が覚めてしまうとまた寝てしまうのが勿体無く感じてしまうからだ。 貧乏性……とでも言うのかもしれないな。 そんな風に苦笑しながら、俺はゆっくりと身体を起こそうとしたが、 ガラ――ッ! 静かな早朝にとってはあまりに似つかわしくない音を立てて、俺の視界に光の世界が開かれた。 「んっ――!?」 突然の光量の変化に俺の瞳が耐え切れず、開かれた障子の方へと手を翳した。 「起っきろ~、起っきろ~ッ!」 「なっ!?」 その陽射しを背にして立つ一人の人物。その手には驚くべきことに、フライパンとおたまが握られていた。 「なっ!? ま、まさか……」 さっきまでのノロノロとした動きが嘘だったように、俺は布団から跳ね上がってその人物の方を見た。 その人物――最初は逆光だったことと横になっていたという視線の高さ故か、それが誰だか良く分からなかった。 だが、はっきりとしたそのシルエットのせいか、それが誰だか認識できた。と言うか、フライパンにおたまなんて古典的な道具を持ち出してくる人物など、俺の知る人物の中で二人……いや、一人しかいなかった。 「ま、待てっ、『イリヤ』!! 俺もう起きてるから――」 その人物――その少女の名はイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと言う。 俺はその彼女に対し、そう制止に入るのだが、時既に遅し。振り上げた両手の道具が素早く重なった。 ガン、ガン、ガン、ガンッ!! あぁ、……なんて古典的な起こし方。こういう起こし方があるということは知っていたが、まさか自分がこの身に味わおうとは思ってもみなかった。 勿論だが、桜や藤ねぇにだってそんな起こされ方をしたことはない。 「イリ……ヤ……。やめ――ッ」 まだ覚醒していない脳を激しく揺らがせる金属と金属のぶつかり合いに、俺は堪らず耳を塞ぐ。 「シロウ~、起っきろ~!」 起こすと言うよりも、もはや俺の様子を見て面白がる為に両手の道具を打ち鳴らしているようにさえ見える。 しかし、イリヤは何故ここまではしゃいでいるのだろうか? 俺より早起きができたせいか? いや、それだけのはずがない。ごく稀にイリヤに起こしてもらう時もあった。だが、ここまでハイテンションではなかった……同じ早朝であっても、だ。 つまり、何らかの原因があるのだろうが、一体それが何なのか? 俺には見当もつかなかった。 「……リヤ。……イリヤッ! 俺はもう起きてるから、いい加減にその音を止めろ。近所にも迷惑だぞ」 「あっ、シロウ起きたんだ。おはよ~」 なんて暢気さ。そして見せる笑顔。 確かにそれこそが「イリヤらしさ」なのかもしれないけれど、俺はただただ呆れるばかりだった。 「……それで? どうしたんだよ、こんな朝早くに? イリヤが6時台に起きるなんて珍しいじゃないか」 「むぅ。わたしだって、いつもいつも遅くまで寝てる訳じゃないんだから。それに何て言ったって、今日は特別な日だもん。早起きだってしちゃうよ」 「特別な日?」 ……はて? 今日は何か特別な用事でもあっただろうか? 2学期も終わり、冬休みに入った今日この頃。日本という国だけが唯一騒がしさを増すこの時期――それはクリスマスがあり、お正月があるせいなのだが、残念ながら今日はまだその日ではない。 となると、余計に分からなくなる。 「あれ? 今日って、何かあったっけ?」 「うそ!? もしかしてシロウ、ホントに覚えてないの?」 「……あぁ」 そんなに驚かれると俺の方も困る。何か、自分がとても悪いことをしているように思えて。 「……まったく。やっぱりシロウにはわたしみたいな「おねーさん」がついてないとダメなんだから」 誰が「おねーさん」だよ?――そうツッコミを入れたかったのだが、今は敢えてそのことは不問にして話を続けた。 「それで、一今日は一体何の日なんだ? もったいぶらずに教えてくれよ……『おねーさん』?」 「ムッ。シロウのその言い方……わたしのこと『おねーさん』だなんて思ってないんでしょう?」 語尾上がりのその言い方が気に食わなかったのだろう。イリヤはぷくーっと頬を膨らませる。 正直に言えば、こんな彼女の仕草こそが俺にそう思わせない要因なのだ。 「もういい! 桜ももう来てるんだから、シロウも早く着替えて居間に来てよね?」 「お、おいっ!?」 まだ話は終わってない――と、イリヤに向かって手を伸ばすのだが、その手は僅かな差で空を切り、そして彼女は俺に背を向けて歩き出し、障子の裏に消えた。 「…………」 が、そこに見えるシルエットはそこから動かない。 「イリヤ、どうした?」 まるでそんな俺の言葉を待っていたかのように、彼女はそこからひょっこりと顔だけ出してみせた。 「ちゃんと準備もしといてよね、シロウ? ……今日からみんなで『旅行』なんだから、ね?」 |
ダイヤモンドダストとぬくもりと (前編) |
「あっ、先輩。おはようございます」 俺が台所に入るとすぐ、桜は俺の声すら聞いていないと言うのに、振り向きざまに笑顔を浮かべてそう言った。 彼女もイリヤ同様に、今朝は随分とご機嫌のようだ。 「ああ。おはよう、桜。……って、こりゃまた随分と凄いことになってるな?」 ふと台所の上を見やると、そこには料理の数々が所狭しと並んでいた。桜のお弁当用レパートリーの全部……という訳には流石にいかないが、それでも「全部詰め込みたい」という思いが伝わってくるほどの料理の数々が所狭しと並んでいた。 また、その隣には重箱が重ねられているのだが、それはもはや「重箱」と呼べるものでなく、「塔」と呼んで差し支えないものとなっていた。あまりに高すぎて、いつ崩れてくるのかとハラハラさせられる思いだった。 「ええ、皆さんよく食べますからね。これくらい作っていかないと皆さんのお腹は膨れないでしょう?」 「まぁ、そう……かもな」 俺は苦笑しつつも、納得せざるを得なかった。今は桜に任せる形になってしまったが、もし俺が作ることになってもこれくらいの量にはなってしまったことだろう。なにせ、ウチのメンバーは良く食べるやつばかりだからな。 そして、俺は桜の隣に立ち、かけてあったエプロンを身に着けた。 「じゃ、俺も手伝うな。少し遅れちゃったけど」 「あ……、はいっ」 イリヤといい、桜といい、今日の彼女らの笑顔はいつもよりずっと眩しく、そして暖かい。それこそまるで冬の太陽のように。 それほどまでに「旅行」が楽しみで仕方ないのだろう。 実は言われるまですっかり忘れていたのだが、俺たちはこの冬休みを使って皆で旅行に行こうという約束をしていたのである。 高校3年の冬休みというこの時期――普通の学生なら旅行どころでなく、ひぃひぃ言ってるはずなのに、自分らだけ早々に旅行を楽しむなどちょっと気が引けていた。しかも、その旅行が「スキー」というのがさらに周りの反感を買ったりもした。 しかし、そんなことは他のメンバーには全く関係なく、半ば強引な感じでこの旅行を計画が進行してしまったのだった。 ちなみにそのメンバーというのは、ウチの総勢メンバー。今いるイリヤに桜。そしてセイバー、遠坂、藤ねぇ、ライダーと、皆女性ではあるが、皆個性的な奴らばかりである。 本心を言えば、楽しいと言うよりは大変そうな旅行になるのは目に見えていた。 「……はぁ」 その旅行の数日間を思い浮かべると、俺の額からはじわりと汗が滲み出た。 「先輩? 包丁持ってるんですから危ないですよ?」 「んっ? ……ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」 「考え事、ですか?」 桜は持っている包丁を一旦置き、隣の俺の方へと目を向ける。少し心配そうな視線で。 恐らく桜は自分のテンションと比較して、ため息などをついている俺のことを心配に思ったのだろう。身を案じるという純粋な思いで。 そんな視線を受けて、俺は顔の前で手を振って否定……と言うよりは遠慮した、と言った方が適切かもしれない。 「大丈夫だよ、桜。別に体調が悪いとか、そういうことじゃないから。そんなことよりさ、ライダーはどうしたんだ? 居間に見当たらなかったけど、一緒に来たんじゃないのか?」 ライダーは今桜の家で暮らしている。故に普段から桜と行動を共にすることが多く、朝も一緒にこの家を訪れることがほとんどなのである。 が、しかし、今はそのライダーの姿はない。彼女も今日出かけるメンバーの一人なのだから、いないのはおかしい。そう思い、俺は話題を変えるついでにそんなことを訊ねた。 「えっ、ライダーですか? 彼女なら、今日の旅行に使う車を借りに出ていますよ。昨日そうするって決めたじゃないですか?」 「あ、あぁ……そう、だったな」 ぽりぽりと頬を掻いて苦笑いする。そう言えば、そんなことを昨晩話し合ったな、と。 しかし、昨晩のことも忘れてしまうとは、どうやら俺はよほどこの旅行に乗り気ではないらしい。やはり「あのこと」が原因であろうということは自分でも分かっていた。 そしてもう一度大きなため息をついたとき、玄関から賑やかな声が聞こえてきた。 「衛宮くん、上がらせてもらうわよ~?」 「シロウ。お邪魔させていただきます」 声は二つ。良く聞き慣れた女性たちの声だった。 その彼女たちは、この家の主である俺の返事も聞かずに、我がもの顔で家に上がってくる。 「姉さんとセイバーさんが来たみたいですね?」 「……みたいだな。桜や藤ねぇは良いんだが、あいつらには勝手にウチに上がっていいなんて許可だしてないんだけどな」 トタトタと少々小走り気味の足音が廊下から響く。この軽快な足音から分かるが、やはり彼女たち二人も相当気分は良いようだ。 「やっぱり今日の先輩、どこかおかしいです。もしかして本当は具合が悪いのに、皆の為に我慢してるんじゃ……」 「いや、本当にそういうことじゃないんだ。ただ、ちょっと……」 ……言えない。言えるはずがない。 まさか、「俺がスキーするのは初めてで、全く滑れない」なんてこと、彼女たちの前で言えるはずもない。 初心者なんだから滑れないのは当然と言えば当然。だが、皆家族のようなものではあるが、6人もの女性に囲まれながら、唯一の男たる俺がそれでは流石に格好がつかない。 しかし、だからと言って、俺は別に「格好をつけたい」訳でもない。初心者というのは変えることの出来ない事実であり、今から数時間でどうこうできる問題でもないのだから。 そう俺自身で理解していた。そうしっかりと理解できてしまっているからこそ、俺は余計に落胆してしまうのであった。 「おはよっ、衛宮くん。それと桜も」 「シロウ、桜。おはようございます」 俺の暗い背中にかけられるそんな明るく爽やかな声が恨めしい。だから俺は、その背を向けたままの挨拶をしてやった。 「おはよう……遠坂、セイバー。セイバーはともかくとして、遠坂がこんな朝早いなんて珍しいじゃないか?」 と皮肉の一つもつけるのを忘れない。 「あら? 衛宮くんの方こそ、朝から私に喧嘩売ってくるなんて珍しいんじゃない? 」 しかし、軽く返してくるのがいかにも遠坂らしく、そして憎たらしい。 だが、こんな言い合いをするのも俺たちの間ではごく普通の光景。だからこそ、お互いの隣にいる桜もセイバーもクスクスと笑いをこぼすだけで、二人を止めようとはしなかった。 「フッ……、フフフフ――」 その中でも、今日のセイバーは特にご機嫌なのか、いつも以上に笑いをこぼしていた。 「ど、どうした、セイバー? そこまで笑うようなことでもないだろう?」 「いえ、すみません。今朝のことを思い出してしまったら、つい……」 「ちょ、ちょっとセイバー!? あれは言わない約束でしょう!?」 「ほぉ? それは是非聞かせてもらわないとな。なぁ、桜?」 「えっ、私ですか!? 私はその……」 そう口では否定しているが、彼女の瞳は興味津々という感じに輝いていた。やはり自分の姉のことだ……気になるのだろう、いろんな意味で。 そして、勿論俺だって気になる。だから…… 「なぁ、なぁ、セイバー? ちょっとこっち」 忍ぶような小さな動作で手招きをし、セイバーを呼ぶ。 「?」 首を傾げながらも、遠坂の隣から一歩足を踏み出す。 「ま、待ちなさいよ、セイバー!」 当然の如く、遠坂はセイバーのことを止めようと手を伸ばすのだが、彼女は軽やかな動きでそれをすり抜けて俺の下へとやってきた。 そして俺と桜で遠坂に対して壁を作るように囲ってやり、お互い息がかかるくらいまでに顔を近づけやるのだった。 「ちょ、ちょっと先輩!? これは流石に、近すぎるような……」 「いや、問題ないだろ。それよりもセイバー。今朝、何があったって?」 桜の言うことなど完全に流す感じでセイバーに話を振る。 そんな俺の対応に一瞬だけ顔を歪ませる桜ではあったが、それもすぐに戻り、セイバーの話に聞き耳を立てるのだった。 だが…… 「すみません、二人とも。いくら貴方たちのお願いとあっても、マスターの命令は絶対ですから。申し訳ないですが、このことはリンと私だけの秘密……」 セイバーはそんな風に頭を下げ、丁寧な物腰で返事をしてきた。 ……なるほど。流石はセイバーと言うべきか、こう対応されては強引に聞き出すというのは少々難しかった。 ならば…… 「今日のお弁当――セイバーが食べたいもの何でも入れてやろうかなぁ?」 「……にしようかと思ったのですが、やはりお二人には話しておいてもいいかもしれませんね」 「ちょ、ちょっとセイバー! あんた、何、寝返ってるのよ!?」 「…………」 などと、こうも瞬間的に切り返されては、こちらとしても苦笑せざるを得なかった。 「すみません、リン。背に腹はかえられませんので」 「あんたねぇ……、ちゃんと意味を分かって言ってるんでしょうね?」 何と言うか、この二人の……それも遠坂の家で過ごしている二人の様子がこのやりとりで手に取るように分かるような気がした。 「あのぅ……、それよりも早く何があったのかを教えて欲しいんだが」 このまま続けさせると、永遠に続きそう……と言うか、あるいは完全に忘れ去られそうなので、俺は釘を刺す意味合いでそんな言葉をかけてやった。 「ああ、そうでしたね。それでは耳をちょっと拝借……」 その言葉に従い、俺は彼女の口元に耳を近づける。……と、 「――――ッ!?」 ビクリ……と震える身体。だが、それは俺自身からの震えではない。 「……桜?」 俺がそんな彼女の方へ顔を向けようとすると、彼女はまさに対称的に俺とは逆方向に顔を背けた。 「えっと、桜? 聞かないのか、セイバーの話」 「い、いえ。聞きますけど、私はここからでも十分聞こえますので」 「は、はぁ……」 そう拒否した桜に若干の疑問を残しながらも、俺はそのまま彼女の口元に耳を近づけた。 「…………」 だが、それ以上に疑問を感じたのはセイバーの様子。 さっきまでの笑顔に比べればだが、彼女もまた表情を歪めていた。 「どうしかした? セイバー」 その声にハッとしたように顔を上げると、まるで何か憑き物でも払うかのように首を大きく振った。 「い、いえっ、なな、何でもありませんよ、シロウ」 「……そっか?」 「ええ。それでですね、今朝……実際には、昨晩一緒に帰宅してからのことなんですけどね――――」 何か釈然としない雰囲気の中、セイバーの口から淡々と語られていく事実は何とも言い難いものだった。 話を要約して言ってしまえば、ただ単に「遠坂が今日の旅行を待ち侘びていた」ということらしい。 昨晩なども、興奮して眠れなかったのか、深夜遅くまでガサゴソと準備をしているような音をセイバーは隣の部屋で聞いたらしい。そして、そんな訳で遠坂は今朝もあまり寝てないはずなのに、セイバーよりも早く起きていて、しかもいつもの寝起きの悪さを微塵も感じさせない様子だったらしい。 まるで、まだ幼い子供のようなその言動――――それはやはり、ある種滑稽であリ、見れるものなら是非見てみたいものだった。 「…………」 話を終え、セイバーがついた一息を最後に、しーんとした耳に痛いくらいの沈黙が辺りを包んだ。 「…………」 俺、桜、セイバー、そして遠坂の4人がお互いの顔をキョロキョロと確認する。そして、お互い目があったもの同士、何か喋ろうと口を半分ほど開けるのだが、結局何も言わずにまた口を閉ざしてしまう――――そんなやりとりと共に、沈黙の時間が刻々と過ぎ去っていった。 だが、この雰囲気にいち早く耐え切れなくなってしまった者がいた。それは勿論、このことの当事者である遠坂だった。 「そうよ、楽しみにしてたわよ。私も何だかんだで旅行なんて行ったことほとんどなんだから、仕方ないでしょ? 文句でもある!?」 などと逆ギレするのだが、正直それは逆効果でしかなかった。 その前の何とも言えない雰囲気が尾を引きずっているような感じだったせいで、何か言おうにも言えない、笑おうにも笑えなかったのだが、その一言で一気に氷解した。 「クッ、フフ、フフフフフ――」 「な、何よ、桜? 急に笑い出したりして気持ち悪いわね」 「だって、姉さん……」 「うん?」 自分の胸の前で両手をきつく握り締め、そして身体をふるふると震わせる桜。そんな彼女の様子に遠坂が首をかしげたその直後―― 「姉さん、可愛い――――ッ!」 そんな黄色い声を上げながら遠坂に飛びかかると、桜はその勢いで遠坂のことを押し倒すようにしてその場に倒れこんでしまっていた。 「……って、私ったら何やってるのかしら。 あ、あれ? ね、姉さん!? 大丈夫ですか、しっかりしてください!!」 「ふぎゅぅ~~」 しかし、仰向けに倒れた遠坂の上に馬乗りしながらそんなことを言っても、何の効果もあるはずがなかった。 「姉さん、姉さんッ!?」 しかも、そんな風に遠坂の上で腰を上下させる(本当は身体を揺らしているだけなのだが)桜の動きはなにかとても―――― って、朝っぱらから俺は何を考えてるんだ!? 朝のこの澄んだ空気には全く似合わない桃色の妄想――俺はそれから目を逸らすように、実際にも彼女から目を逸らした。 「…………」 ちょうど俺を挟んだ反対側。つまり振り向いたすぐそこに、イリヤが黙ったまま俺のことを見つめていた。 「ど、どうかしたのか、イリヤ?」 「…………」 だが、彼女は瞬きすらせずに、俺のことを見つめ続けていた。ほんの僅かに、その小さな頬を膨らませながら。 そして…… 「シロウの――ば~~かぁ!」 その突然の声が俺の耳に届くよりも早く、俺の向う脛から電撃が走るような痛みを感じていた。 「――――つぅ!?」 小柄なイリヤ。その小さな足から繰り出される蹴りなど、本来なら大した痛みをもたらすものではない。 だが、その場所を蹴られては、俺でもその痛みに足を抱えて蹲るしかなかった。 「い、イリヤ?」 「シロウなんて、知らない!」 「はぁ?」 今度はイリヤが俺から顔を逆に背け、その足を居間の出口へと向けた。 「お、おいっ、イリヤ?」 痛みがまだ治まりきらないため、彼女に向ける手が完全に伸びきらない。故に、結局その手はイリヤに触れることなく空を切るだけだった。 ……そして居間に残されたのは、片手は空に片手は足に固まる俺。今だ桜に擦り寄られて目をぐるぐるさせている遠坂。そして、本当は自分が発端であるはずなのに、全くそれと思わず、口をOの字にして固まるセイバーの姿があった。 それからややあって、 「たっだいま~、士郎。今帰ったわよぉ~」 こっちの方も朝っぱらだと言うのに、まるで飲んで帰ってきたかのような口調の人が一人。 「桜、只今帰りました。……あぁ、士郎も起きたのですね。おはようございます」 それに引き換え、こっちの礼儀の正しさはどうだろう? どちらも同じ年上の女性。だが、年上の尊厳の差が目に見えて分かるほどの女性2人がイリヤと入れ替わりにこの居間に足を踏み入れた。 「って、あら? どうしたの、これ?」 2人の女性の片方(ちなみに、尊厳がない方)の女性、藤ねぇがこの居間の様子をきょろきょろと見渡しながらそう言った。この、先程と何も変わらぬ状況を見て。 「いや、まぁ……見ての通りなんだが」 俺は脛を擦り、藤ねぇの方を見上げながらそれだけ告げる。 「見ても分からないから聞いてるんだけど……」 そりゃあ、分からないだろう。一部始終を見ていた俺自身だって、よく分からないのだから。 「あの……、大河、士郎? お話中悪いのですが、そろそろ準備していただかないと道が混雑しますので……」 そんな風に停滞していた俺たち二人の間に割って入るように、ライダーが口を挟んだ。 「えっ、もうそんな時間か?」 先程のやりとりからしてさほど時間など経っていないように感じられたのだが、時計の短針はもう8の数字を回っていた。 そう言えば、忙しなく鳴いていた雀たちの声がいつの間にか聞こえなくなっていたのに今更ながら気付いた。 また、ライダーの言う通り、これ以上のんびりしていると、渋滞に巻き込まれて昼頃までに着けなくなってしまう可能性が高いのも確かだった。 「そう……だな。少しのんびりしすぎていたな。すぐに準備するよ、ライダー。 ……ほらっ、桜もいつまでも遠坂にくっついてないで、弁当の最後の仕上げをしちゃおう?」 「えっ、あっ……はい。す、すみませんっ」 俺のそんな呼びかけに、ようやく正気を取り戻した桜は、遠坂の上から退き、俺の後を追って台所に再び戻った。無論、遠坂のことは完全に放置して。 その行動をきっかけにのんびりとしていたこの衛宮の家がまた、徐々にではあるが動き出す。 北の雪の地を目指すための準備のために…… それから程なくして、全ての準備が整い、俺たちはこの俺を最後に衛宮の玄関を出た。 かちゃり―― その戸に鍵を閉めると、俺は翻し、家の土地からも外へ出た。 「先輩、もう戸締まりは出来ましたか?」 「あぁ、OKだ。桜もちゃんとガスの元栓とか閉じてくれたんだよな?」 「はい、それはもう……」 ポンと桜の肩に手を置いて隣を通り抜けると、目の前には大きなワゴン車がエンジンを温めていた。 「もう荷物は積み終わったか?」 「はい。今入れたので、全部です」 「それより、衛宮くん? こういう力仕事は普通、衛宮くんがするべきじゃない?」 「あぁ、悪かったよ。だが家の中の点検は遠坂やセイバーに任せられないだろ?」 「それはそうだけど……」 そんな俺たちの話など気にもせずに、ん~~と背筋を伸ばし、トランクのドアを閉めようとしているセイバー。 だが、彼女の背では持ち上がったそのドアに届かず、ピョンピョンと小跳ねしているその姿はどこか滑稽であり、可愛らしかった。 「……ふぅ。俺がやるから、セイバーは離れてて」 「はい。すみません、シロウ。お役に立てなくて……」 「いいよ。それに、誰にだって出来ることと出来ないことはあるんだ。だからさ……遠坂、勘弁してくれな?」 「べっ、別に、いいわよ! あんなの冗談だってことくらい分からないの?」 「……そっか」 そして俺はセイバーを横に退け、少しはみ出た荷物をそのまま強引に押し込むようにドアを閉めた。 「さぁ、二人とも。荷物も積み終わったんだから車に乗って」 「はい。ではお先に……」 「…………」 冗談……とは言いつつも、遠坂は今だ顔を不機嫌そうに歪めながら、セイバーの後に続いて車の中に乗り込んだ。 「さて、残りは……」 ぐるりと辺りを見回す。 いくら休みとは言え、やはり冬の朝の時間帯では人気が全くない。 既に車に入った桜、遠坂、セイバーを除くと、藤ねぇにライダー……そして、 「イリヤ? どうした、早く車の中に入れよ?」 「…………」 だが、イリヤは門の影からじっと俺のことを覗き見るだけで、そこから一歩も踏み出そうとはしなかった。 「……ったく」 もしかすると、さっきのことでまだ怒ってるのか? とは言え、その原因が定かではないのでどうすればいいのかも良く分からない。 だが、イリヤも他の連中同様……いや、それ以上に頑固だから、このままじゃいつ出発できるかも分からないぞ? そう懸念した俺は、とにかくイリヤのご機嫌をとることにした。 「イリヤ。いつまでもそんな所に隠れてないで、早くこっちに来い。旅行、楽しみにしてたんだろ? 早く出発しないと時間も勿体無いぞ?」 「…………」 しかし、イリヤはずっと黙ったまま、俺を睨み続けたままで、こちらに来る様子は見られなかった。 「はぁ、イリヤ~? お前、さっきから何を怒ってるんだよ? 俺を起こしに来た時はあんなにはしゃいでたのに……」 「だって、シロウ……が……」 俺が……何だと言うのだろうか? やはり、イリヤがこうも不機嫌な原因の最たる部分は俺にあるというなのか? だが、正直な話、全く思い当たることが節がない。 「あー、もーッ!」 なんで朝から……しかもまだ旅行に出かける前から俺はこんなに疲れているのだろうか? 俺にはイリヤの意図が読めない。そしてイリヤは俺の言うことも聞いてくれない。これじゃ、いつまで経っても泥沼だ。 「士朗~、まだぁ~?」 さらには、後ろからそんな藤ねぇの催促の声が突き刺さる。それに加え、他の連中の視線もどこか冷たさと鋭さを持っていた。 そのことに爪を頭に激しく掻き立てながら、俺はギリッと歯軋りをさせた。 ええい、流石にもう限界だ。 ザッザッ、と大きな音を立てながら、俺はイリヤの下へと歩み寄る。 「――――」 突然の俺の行動に戸惑ってしまった一瞬のラグ――そのせいでイリヤの反応が一歩遅れた。そして、その一歩の遅れが、俺の射程内にイリヤ自身を入れてしまっていた。 彼女の振り向きざまに揺れる銀色の髪が、俺の伸ばした手にそっと触れる。 その感触に一瞬手を止めそうになるものの、俺はそれを越えて彼女の華奢な肩をしっかりと掴んだ。 「待て、イリヤ」 「シロウ、離してッ」 「離したら逃げるだろう?」 「…………」 ここでの沈黙が「YES」であることは明白すぎた。 それと同時に、その拒絶は俺の心にざくりと槍を突き刺すようでもあった。――そこまで俺は嫌われているのか、と。 しかし、それでも俺は…… 「俺はお前と……、イリヤと一緒に行きたい。皆と一緒に行く中でも、イリヤがいてくれるならいい。俺はそう思ったからこそ、この旅行に行くことを決めたんだ」 「……え?」 掴んだ肩。それをぐるりと反転させ、そして表を向いた彼女の顔を俺の胸に埋めさせた。 「覚えてるかな? 俺さ、最初はこの旅行について訳もなく反対してたときがあったろ? 実はさ、この旅行に行きたくない理由があったんだよ」 「理由? ……何?」 「まぁ、それは格好悪すぎて今もまだちょっと言えないんだけどさ。でも、結局は俺が折れて『行く』と言ったとき、皆の中でも一際……いや、一人だけ眩しいくらいの笑顔を見せてくれた人がいたんだ」 「…………」 「それがイリヤ、お前だ。だから俺は、イリヤのためにこの旅行に行く。お前が喜んでくれるならって……」 「で、でも、今日のシロウは他の皆の相手ばかりで、私のことちっとも構ってくれなくて……」 「『構って』って、まさかそんなことで?」 「そんなこと、じゃないもん!」 ビリッと、この冷たい空気を震わせるほどの声が俺の鼓膜をも震わせた。 後ろで待機している藤ねぇたちや、車の中に入ってしまっている桜たちですら、何事かをこちらに視線を投げかけていた。 「……イリヤ」 そして俺の服を掴んでいた彼女の手に一層の力が篭り、俺の皮膚にすら食い込むほどになっていた。 だが、その痛みにも俺は顔を微動だにすら歪めず、彼女のその小さな身体をただただ抱きしめていた。 「怖かったの……」 「怖……かった……?」 なんで? 俺のように単に旅行に行きたくない、と言うならまだしも、『怖い』というのは完全に範疇の外だった。 「だって、初めてなんだもん。旅行に出かけるなんて……。ううん、誰かと一緒に出かけるなんてこと……」 「だから、そんなことで…………、あっ!」 そう。 俺……いや、俺たちにとってはイリヤが言っていることなんて、『そんなこと』にすぎない。 けれど、このイリヤという少女に限ってはそれは『そんなこと』では済まされないのだ。 なんて愚かなんだ、俺は。 イリヤが本当は何も知らない無垢な少女であることに、気付いてやれなかったなんて。 確かに魔術のことに関しては遠坂よりもさらに多くの知識や経験、魔力を持っているかもしれない。 だが、それ以外のこと――殊、俗世間のことなどは例え表面的な知識は持っていたとしても、今まで全く触れもしてこなかったということ。 つまりは、そういったことに関しては、普通の人として幼児レベルでしかないのかもしれないのだ。 しかも、それが…… 「旅行だからって皆いつも通りで、いつも通り過ぎて……、なんだか私だけ、置いてきぼりにされてしまっているようで……怖かったんだもん!」 そうなのだ。 例えば、幼稚園の遠足のように、皆が皆初めての経験とかであれば問題ないのだが、今回の旅行の場合はそうではない。 そしてイリヤが言う通り、今回はイリヤだけが馴染めてないのも確かだった。 俺の前で明るく、そして気丈に振舞っていたのは、彼女なりの俺への救難信号だったのか…… 「ごめん……な、イリヤ」 彼女のその銀色の髪をそっと梳く。 その行為にイリヤは、気持ち良さそうに目を細めた。 「ついててやる」 「えっ?」 「この旅行中、俺はずっとイリヤの側についててやる。だから……心配するな」 「あ――――」 イリヤのその紅い瞳にじわり浮かび出る涙。 彼女はそれを見せないように、俺の胸の服に擦り寄せた。 「泣くのもダメだぞ」 「泣いてなんか……ないもん」 そう言うイリヤではあったが、その震える声、そして熱く濡れる胸が俺に彼女の涙を感じさせた。 その姿がとても可愛くて、とても愛しくて、俺の彼女の身体をそのまま抱き上げた。 「きゃっ!?」 彼女のその小さな身体が俺の腕の中に横たわり、そして目の前の彼女と見つめあう。 「シ、シロウ……下ろしてよ。は、恥ずかしいよ!」 俗に言う『お姫様抱っこ』というやつに、イリヤは俺の腕の中でじたばたとはしゃぐ。 「ダメだ。それに今言ったろ? 俺はお前の側にいるってさ。だから、大人しくこのままで居ろ……『お姫様』」 「だってぇ……」 少し意外だった。 イリヤのことだから、こんなことをしてやれば喜んではしゃいでくれるかと思っていたのに、まさか恥ずかしがって嫌がるなんて。 ……いや、きっと子供扱いされることを嫌がっているだけなのかもしれないな。 俺はそう思うことにして、足をそのまま車の方へと向けた。 しかし、随分長い道のりに感じる。 玄関から10mも離れていないかもしれない距離だというのに、俺たちはまだ歩いていた。 だからその間の時間を使って、イリヤに尋ねてみる。 「……ときに、イリヤ。一つ聞きたいことがあるんだけど……いいか?」 「うん? なに、突然?」 いつの間にかはしゃぐのも止めていたイリヤが首を傾げた。 そのときに揺れた前髪が――――どことなく色っぽくて、俺は視線を逸らしてから話を続けた。 「あー、その……だな。その、イリヤは……スキーってやったことはあるか?」 「へっ? スキー?」 これからしに行くのだから、決して話題としてはおかしいはずもないのに、イリヤはその言葉に予想以上に驚いた。 ……いや、その言葉に、と言うよりは、今シロウがそのことを言うということに驚いたのだった。 「う、うん。自分で言うのもなんだけど、結構……得意」 「そ、そうか! なるほど……、イリヤはスキー得意か。……うんうん」 「???」 イリヤがそう首を傾げたくなるのも分かる。俺だって自分で何を言ってるのか良く分からなかったりするのだから。 「シロウ?」 「いや、別に大した意味はないよ。ただちょっと聞きたかっただけなんだ」 「……ふぅん」 そうして強引に話を打ち切ったとき、俺たちはようやく車の下へと辿り着いていた。 そして、俺は一旦彼女を道路に下ろすことなく、抱いたまま車の中の座椅子に導きいれた。 だが、俺は知らない。 そのときの彼女がにやりと口元を歪めていたのを。 俺は知らない。 まさかもうこの時点でイリヤに気付かれてしまっていたことを。 「では、皆さん。準備は宜しいでしょうか?」 運転席に座ったライダーが後部座席の俺たちを見て確認をとる。 俺、イリヤ、セイバー、遠坂、桜……そして、助手席に藤ねぇ。 確かに皆揃っている。出発準備は完璧だ。 「大丈夫だ、ライダー。じゃあ、安全運転で頼ん…………」 そう言いかけて、俺の口は固まった。いや、凍りついた。 「大分遅くなってしまいましたからね。ロスした分を取り戻すため、飛ばしますよ。皆さん、シートベルトはきちんとしておいてくださいね」 なんてことを、くいくいっと黒いグローブをはめながら口にする。と言うか、なんで彼女はそんなライダーグローブなんて持ってますか? 嫌な予感が走ったのは、多分俺だけではないだろう。 イリヤは俺の隣で上機嫌のままだが、最後部座席に座っている遠坂の額にはじわりと玉のような汗が浮かんでいた。さらには、そんな彼女の隣に座るセイバーなどはまだ走ってもいないのに、車酔いでもしたかのように顔を青ざめていた。 やはり……か。 遠坂曰く、セイバーの直感能力は最早『予感』というレベルではなく、『予知』と言えるものらしい。 実際に、俺も何度か彼女のその直感能力を目にしたこともあった。 だから、そのセイバーがこう怯えてしまっているということは、つまり…… 「では、行きますよ。レディ――――」 エンジン回転のタコメーターの針が一気に触れる。 そして、まるで暴走族でも通りかかっているような爆発的なエンジン音が響き渡るのと同時に、 「ゴ――――ッ!!」 ガコン、ガコンと発進して間もないというのに、ライダーの左手に握られているシフトレバーは既に4速を入れられていた。 「うっ……、くぅ」 ガクンと視界がぶれ、周りのものが残像するほどの初速で車は発進する。 「――――、――――」 そして、その発進にウチの女性陣はてっきり悲鳴を上げるかと思っていたのだが、予想外にもそんな声は車内には響き渡らなかった。 ……違うな。 それは、絶叫を通り越した声にもならない叫びなのだと、俺も皆同様、車内の手すりにしがみつきながら感じていた。 しかし、ただ一人だけ…… 「行け、行け、ライダーッ!!」 彼女の隣に座る藤ねぇだけは腕を振り上げてはしゃいでいた。 ただそれだけが、俺たちが車の中で過ごした数時間の記憶だった…… |
|